咀嚼と嚥下

咀嚼したり嚥下したりしたものについて書きます。それらをできなかったものについても書きます。

2024年3月11日の日記

いつも通り、在宅で仕事をしていた。
昼休みも満足に取れないくらいに仕事は積み上がっていたが、14時45分から15時のあいだは、何のミーティングも入らないようにカレンダーをブロックしていた。その時間にミーティング相手となる同僚の価値観を知りたくないと思ったからだ。それにうっかりミーティングが入ったときに、同僚に14時46分に議論を中断したいと伝えることが自分にできるのか、わざわざ確かめたくなかった。
 
PCに背を向け、焦点を合わせずに虚空を見つめていたら1分はそれなりにすぐ過ぎた。遠くの街にいてすら、あんなに長く揺れていた気がしたのだけど。
私が13年前の今日、地元にいなかった部外者だとしても、この日を「なんでもないです」という顔で過ごさなくてもよいのだと思うようになったのは10年以上経ったここ数年のことである(そもそも地元は内陸なので、仮にその日そこに居たとて「私は当事者とは言えない」という気持ちに苛まれていただろう。多分)。そのときから、忘れようと思っていたことも忘れていた「安全圏で感じていたこんな些末な不安」も少しずつ取り出せるようになった。
 
先日、大きな本屋に寄ったら、『東北モノローグ』という本が平積みになっていた。まだ新しい本が出て、平積みになる、ということに安堵のような気持ちを覚えながら、それとリバーシブルの罪滅ぼしに似た気持ちで一冊購入した。今は枕元に置いてある。
免れてしまった居心地の悪さと整合を取るために、最初から覚えておくことすら放棄しようとしていた。でもそれはやめた。
13年も経つ間には疫病も流行ったし、別の場所でも酷い災害は起こった。そうなった今になってやっと、あのとき同じ時間軸の上にいて、ちょっとだけ所縁のある場所に思いがあるということを理由に「覚えておく」人間でいようとしてもいい、するべきだと思うようになった。
 
13年経っても、湿ったドカ雪も降らず、桜が咲くような3月に慣れる日はまだ来ていない。だからそうしようと思った。